【守口市】語り部ガイドマイスターと行く〝東海道五十七次〟『守口宿』【Part3 難宗寺・盛泉寺~】
年末に、語り部ガイドマイスターと行く〝東海道五十七次〟『守口宿』【Part2 高札場~】をご紹介しました。
今回は、【Part3 難宗寺・盛泉寺~】をご紹介します。
こちらは、八島の交差点から竜田通りにある大塩平八郎ゆかりの書院のあった白井家があった場所です。白井家跡の説明板と石碑があります。
もりぐち歴史館(旧中西家住宅)とこちらの白井家のどちらかを残すということになり、中西家が残されたそうです。
現在は、マクドナルドの駐車場あたりです。
斜め向かいに守口宿本陣跡の説明板があります。
こちらが難宗寺です。
以前、大阪府指定天然記念物の銀杏の木をご紹介しました。
難宗寺前にある2本の道標は「左 京」「すぐ守口街道」とあります。また、2本の記念碑は、「御行在所」とあり、明治天皇が慶応4年(1868年)に宿泊された所です。
御仮泊所とは明治43年に大正天皇が皇太子の時に宿泊された所です。
そして、次が近くにある盛泉寺です。
こちらの石碑には「史跡 内侍所奉安所阯」 とあります。飯盛女のお墓があるようです。
難宗寺が守口西御坊、盛泉寺は東御坊と呼ばれているそうです。
橋の跡が守口市竜田通に残っていて、こちらが瓶(亀)橋跡です。
東側と西側にあり、「瓶橋」の名前は「口を守ること瓶のごとし」からきています。
守口一里塚跡です。この石碑が説明で後ろの木が一里塚となります。幕府が江戸日本橋を起点に、街道の両側に一里ごと(約4km)に五間四方の塚を造り、その上に年中茂っている木を植えました。多くは榎を旅人たちが宿場町の出入り口と分かるように植えられていました。
豊臣秀吉は、文禄三年(1594年)に大坂城と伏見城の二つの城下町を直結する目的で、淀川沿いに堤防を築き、上を道路とし宿場町となる京街道を作り、町に大きな発展をもたらしました。
古き良き、昔の街並みを号外NETの記事で残していきたいと思います。
今回、守口宿を3回に分けてご紹介しました。また、案内していただいたらご紹介したいと思います。
※内容は守口門真歴史街道推進協議会マップとガイドマイスターの案内より
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